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古くさい純潔への批判

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ピンクバラ古くさい純潔への批判

 ぼく等は今、極端な純潔主義が陥りやすい危険の一つについて考えてみました。そこで、さらにもう一つの危険のことにも言及しておきましょう。

 それには肉体や肉欲に対する偏狭な考え方を生むということです。これは外国のように純潔主義が宗教から発生している国では特に見られる傾向であります。

 人間を霊と肉に別けます時、霊の側に全ての徳をおき、肉とはただ罪と暗黒との世界でしかないとう考え方にあります。
 皆さんの中にはクリスチャンの方もいられるかもしれませんから、この愛情は分かって頂けるでしょう。

またクリスチャンでない方も、先ほどちょっと、書きましたように、若い女性として、肉欲にある嫌悪感をおもちの方は随分、たくさんいられるにちがいないと思います。

 愛情とはただ、精神的な面の上にのみ育(はぐ)くまれたるものであり、そこに肉欲を導き入れることを汚らわしいもののように感じる。そういう感情はある年齢の間は多かれ少なかれ、若い方はいだくものなのであります。

 つまり、このことは肉体や肉欲にたいする正しい評価ができていないことなのです。肉体や肉欲をあるべき位置において支配する眼がまだ生まれていないことなのです。
 では、こうして歪められた肉体や肉欲についての考えが、どのような危険が生むかを一つの小説を例にとってお話ししましょう。その小説は、フランスの現代作家、ジュリアン・グリーンの『運命(モイラ)」という作品です。

 小説の主人公はジョゼフという頭の毛が真っ赤な大学生であります。彼はアメリカのある地方大学の文学部に笈(きゅう)をおうて遊学にくる。


 ジョゼフの希望は将来、牧師となって、人間の悪から救済することにあったのです。

 そのような男でありましたから、彼は一切の罪の原因となるものを烈しく憎みました。学校で習うロメオとジュリエットの恋の会話さえ、彼に恐怖と戦慄とを起こさせたのです。

ました下宿や教室で、他の学生たちの取り交わす、みだらな話など耳にすると、ドス黒い怒りが烈しく、こみあげてくるのでした。

 彼は肉を憎みました。すべての罪の原因となる肉を憎みました。


 この大学生にとっては女性の白い肢体やあかるい笑い顔も、それは生の刺激となるのではなく、罪の刺激のみをもたらすように思われました。


 彼はまた自分の成長した逞しい体を恥じました。体内に時として燃え上がる暗い炎と彼は汗にまみれながら闘いをつづけたのです。

 ジョゼフが下宿している家にモイラという娘がいました。みだらな、奔放な娘です。ながい間、この街から離れた所にいたのですが、それ突然、家に戻ってきたのです。

 モイラはこの奇妙な青年に眼をつけました。彼女はジョゼフを弄んでみたくなったのであります。肉体に怯え、肉体に恥じるこの純潔主義の青年を思いきり、嘲笑してみたくなったのです。

 ある夜、モイラはジョゼフの部屋に忍んでいきました。勿論、彼を誘惑するためです。最初は彼女を拒もうと必死に自分の肉欲と闘ったジョゼフも遂にこの娘と過ちを犯してしまう。気がついたとき、夜がしろじろと明けてきました。

過度の純潔主義が人殺す

 自分は怖しい罪を犯したとジョゼフはなげきました。肉欲の罪に負けてしまった。だが、その罪の原因は、この女のためだった。


 憎悪と怒りにかられてジョゼフはモイラの口をふさぎ、彼女を殺してしまうのであります。

 この悲劇的な作品がぼく等に教えることは、極端な純潔主義は破壊の精神にみちびかれるということです。

 と申しますと、少し難しくなりますが、この小説の結末が、人殺しの陰惨な場所で終わっていることを考えて下さい。
 作者が述べたかったことは、過度の純潔主義が人殺し、――つまり人間性を殺すという点にあったのです。人間は神や天使ではありません。


 彼は霊とともに肉をも与えられた存在なのです。人間性には、霊だけでなく肉も含まれているのです。極端な純潔主義は、肉をただ罪の領域、悪の温床として取り扱う。


 そのために肉を破壊しなければならない。
 他人の肉体を、自分の肉体を破壊しなければならない。ぼくが極端な純潔主義は破壊精神をもたらすと申し上げたのは、そのような意味であります。

 勿論、このような極端な肉の恐怖というものはキリスト教の根強い欧米ならともかく、日本ではほとんどあり得ないことでしょう。
 けれども、やはり考慮(こうりょ)して差支えないことです。
なぜならこのことは逆に、日本の若い男女の純潔についての考え方と、彼等西欧人のそれとの差違をはっきり浮かび上がらせるからであります。

純潔についての観念が、宗教と結びついている

 西欧では純潔についての考えはこのように宗教観念と非常に結びついています。
 皆さんはキリスト教のうちでも旧教、つまりカトリックの司教が終生、独身であることをご存知でしょう。尼僧たちが童貞女とよばれるように一生、結婚しないことも聞いていられるでしょう。


 カトリックは決して肉体を今の小説の主人公のように歪んだ形で取扱ったり偏見をもたないのですが、やはり純潔の徳ということは大切にいたします。

 ともあれ、西欧人の純潔についての観念が、宗教と結びついているのに対して、われわれ日本人はそのような強力な支柱がありません。

 先ほど、ぼくが皆さまの純潔に対する願いに意志的であるより、むしろ生理的なものだと書いたのも、このような意味です。
 これは少し暴言かもしれない。ひょっとすると、読者の皆さまの眉をひそめさせることになるかも知れない。

 そこでぼくはむしろ皆さまに質問の形でおたずねしたいのです。
 日本の若い女性が肉欲を賤(いや)しいもの、汚いものと思うのはある思想に基づいているというよりは、むしろ女性一般の肉体的恐怖によるものではないでしょうか。

 つまり、女性は男性よりも肉欲の開花が遅いこと、なぜなら、その場合、女性は時として妊娠と言う結果を背負わねばならない・・・・その他さまざまの生理的、社会的な理由だけが日本の女性に純潔の漠然とした気持ちを与えているのではありませんか。

 もし、そうだとすると、これはやはり考えねばならぬ大きな問題と私は思っています。


 たとえば、こういう一例を上げることをどうか許していただきたい。日本の若い女性――貴方たちのように近代的教養を身につけられた方でさえも西欧の女性に比べて――男性に向かった場合、一度、相手に肉体を許すと、それは雪崩のように急速に陥(おちい)っていく傾向が甚(はなは)だしい。

 つまり、これは純潔の欲望が、思想的、宗教的、意志的であるよりは、生理的な本能にささえられている面が強いために、一度、体を許してしまうと、もう純潔に対する防御力が薄れてしまうからです。

純潔の精神が思想的なものに支えられ、積極的なものではありませんから、どうしても身を許した男に――愛情がなくても――すがっていく。


 あるいは、そのまま数多い男性に身を任せてもそれほど苦痛にならなくなってくる。いわゆる、日本の女性の悲しさも、この点に一つの原因があるのではないでしょうか。

 勿論、ぼくは男性でありますから、この点考え違いをしているかもしれません。
 ただ、皆さんに一つ疑問を出して、考えて頂きたいと思うのです。


 それはともかく、先ほどの極端な純潔主義もある危険をもっていますが、たんに肉体的未成熟な未成熟や、肉欲に対する本能的な恐怖感に支えられた純潔主義もまた弱点をそなえているといわねばなりません。

 それを防ぐためには、皆さんは肉体や肉欲について正当な評価をしなければなりません。正しい人間性に則して、肉欲を徒らに軽蔑したり、汚らわしいものとして考えてはなりません。

 誤解のないように前もって申しあげておきますが、以上、二つの形でぼくが極端な純潔主義の危険を指摘したからと言って、純潔主義そのものが間違ってるのではない。


 それが極端に走り、過激に陥ることを戒めているのであります。男女間の愛情というものは、やがては肉の結合を要求するのでありましょう。
 その場合にそなえて、肉とか、肉欲についての正当な価値を認識することを皆さまにお奨めしているのであります。


 このことはあとで書きますが、今は極端な純潔主義を防ぐために、ぼくは、次のことを皆さまに申し上げておきましょう。

過度の結晶作用を防ぐ

一、 恋愛において過度の結晶作用を防ぐこと…・結晶作用とは先に述べたように、過度に相手を美化して考える感情であります。
勿論、恋愛というものは陶酔がなくては成立しません。あまりにも冷たい眼で相手を観察しては、恋愛の悦びというものは消え失せてしまうものです。


 モモウリャックというフランス現代作家の『テレーズ・デケルウ』や「夜の果て」という小説は、あまりに非情すぎて陶酔することを知らない一人の女性の不幸を描いたものです。


 彼女は恋愛というものが相手の男にマスクをかぶせることを知っている。したがって、どんな時にもそこに何か虚偽なものを感じてしまうのです。『窄(せま)き門』がかりに陶酔しすぎる恋人たちの悲劇としますと、この小説は陶酔できえぬ者の悲劇といえましょう。

 ぼくは勿論、皆さまにこの『テレーズ・デケルウ』のごとくあれというのではありません。けれども行き過ぎた純潔主義で恋愛を支配しないように申しあげます。

一人の男性として彼の強さも、弱さも愛する

 愛するということは美化した相手を愛することではありません。
 相手を一人の男性として彼の強さも、弱さも愛することであります。
 彼もまた一人の男性であること、聖人でも英雄でもないことを認めてやらねばなりません。


 だか、だからといって彼の弱さに屈服するということでもない。ただ、純潔主義が行き過ぎないようにすべきなのであります。

 そのためには、貴方は男の人をよく知っておく必要があります。
 ぼくはその点貴方たちが学校や職場などで、決して孤立せず、どの若い青年たちと気楽に交際されることをお奨めします。

 どの青年にも捉われることなく、交際する機会があれば、それがやがて、貴方が愛する青年をみつける際にも、また、彼を極端に美化して考える危険を防ぐ上にも役立つでありましょう。

の性欲に対する嫌悪感は是正

二、 純潔主義による過度の肉への恐怖や肉欲に対する嫌悪感は是正し、こうしたものを正当に評価するためにも近ごろ、性教育の問題が叫ばれていますが、ぼくはそれだけでは足りないと思います。
 もっと大切なことは女性の持っている母性的な評価や使命を尊重することでしょう。

 ぼくなどもその一人でしたが、ふりかえってみますと、子供の時から異性をどう考えるべきか、異性をどう人格的に尊敬すべきかという意味での性教育は日本では殆んど行われなかったような気がします。

 今では、男女共学も一般的になりましたが、ぼく等の頃は、奇妙な純潔主義? が親たちの頭にあって、同じ年齢の異性をたがいに避け合うことが真面目な態度のように考えられていた。

 あやまちを犯してはならぬという年配者の気持ちもよくわかりますが、もっと大切なことは、異性をたがいに尊重し合う眼を開かせることであります。

 今日、男女共学の行われている場所にいっても、やっぱり、この点は閑却されているように思われます。こうした教育がおろそかにされているため、彼等が青年や乙女になった時の交際が実に下手なのです。男は徒らに興奮したり、強がったりしますし、女性はオジオジとする。
 今日は、そういう風景は随分、少なくなりましたが、まだ消えたわけではありません。

 女性が最も女性として尊厳をもつのは、何といっても彼女が母性になりうるということでありましょう。
 この母性としての使命は、男性がもっと敬意をはらってもよいものであります。


 そして、肉体や肉欲というものに――ぼくが先ほど書きましたように――正当な価値を与えるためには、それが、この母性を創るための場合であります。そういってしまえば、皆さんは何だ、そんな簡単なことかと思われるかも知れない。


 だが、肉や肉欲は、精神的なものと一致した時、その使命や正しい意味をもつものであり、決して嫌悪したり拒絶すべきものではない。
 母性という崇高な徳や能力と結びついた時、肉欲もまた美しいものになるのです。

差し込み文書
「性生活において75%の女性は長さも太さも重要であると考えており、サイズが小さいかっこいい男よりも、サイズが大きいけど平均的見た目の男の方が好ましいと81%が回答しています。


女性の性感帯は陰核、陰唇、膣口、乳首、尿道口、Gスポット、耳、首からなる約8部位からなるとWikipediaでは記している。が、それら8部位は前戯としての性感帯であって、小オーガズムとして得られる。男性との性交では、膣内は中オーガズムとして得られる。そしてセックスの中心といわれる子宮頚部(噴門)が大オーガズムとして得られる。


 と言われております。性感帯8部位と膣、子宮噴門が高度な心地良さを感じて最高潮となり大脳皮質においてドーパミン系機構からドーパミンが大量に躰全体に放射されることで子宮が3-15回ほどの筋収縮が起こる、これが
究極のオーガズムと呼ばれるものであるWikipedia提供文献からから推測される」
ソフトノーブル通販オーガズムの定義から引用

つづく  恋愛における純潔の意義